振り返りフィリピン研修
はじめに
この活動をする上でもっとも大切なことは現地を見ること。日本では決して出来ない生活を体験し、写真では味わえない何かを感じることが出来る。更に、現地の人々の話を聞くことはかなり貴重な体験である。今回の訪問はSchool By Schoolの活動を始めて二回目となった。
初日、CIWESTの事務所で今回の旅の予定を立てた。マニラからバヤワン、マリアパース、そしてマニラという四泊五日の旅である。大都会から田舎の農村、漁村、そして大都会へという、フィリピンの貧富の差を痛感させられた。マニラでは高級ホテルに泊まり、地方では台風が来たらひとたまりもないような家でホームステイをした。
首都のマニラはごみの量が減っている印象を受けた。前回は道のあらゆるところにごみの塊があり、異臭を放っていた。フィリピンは大気汚染防止のため、ごみの焼却処分が禁止されている。そのため、スモーキーマウンテンやステージングエリアのような、いわゆるごみ山に運ばれるわけである。また、田舎の山の中でも同じようなプラスチックが捨てられている。これはフィリピンの中で急速に資本が広がった為、人々の知識が追いついていない。プラスチックは土に返らない。その常識がフィリピンでは通用しない。あるいは、知っていても大した問題と捉えられていないのだろうか。将来のフィリピンが心配になった。しかし、一年経った今回の旅では明らかにごみの量が減っていた。また、前回印象に残っていたスクワッターエリア(スラムエリア)の一部が完全になくなっていた。隣を見ると道路工事が行われていた。おそらく強制的に撤去されたのだろう。そのように、一年ぶりのマニラも変わっていないようで実際のディティールは大きく変化しているようだ。
初日、ホテルに行く前に藤村さん(桃山卒のCIWEST STAFF)の家に行った。これにもびっくりした。クーラーはない、部屋は相部屋。部屋の中は立っているだけで汗が吹き出てきた。桃山を出て、神大で建築を勉強してきた人がなぜこんな家に住んでいるのだろう。研修生に日本語も教え、拳法も教えている。藤村さんに家の周りを案内してもらった。高い壁で囲ってある高級住宅街を抜け、一歩、路地裏に入った。信じられなかった。人であふれかえっている。人一人通れる道の両側にびっしりと経て並んでいるボロボロの家。真っ暗な家の中には確かに人々の生活がある。写真を撮りたかったけれど、あの場所でカメラを出したら大変なことになっていただろう。カメラが彼らに与える影響もすさまじい。彼らには手の届かない高価なものを僕たちが持つことでフィリピンの人たちは何を思うのか。これについては考えさせられた。路地を抜け川岸に出た。ここにも子供たちがむせ返っている。一体何人ほどいるのか想像もつかない。それでも、Welcome to Philippine、ニーハオやハポン(日本人)!などいろいろな声をかけてくる。防空壕を改造して作った家やトタンの家。あの家を見てかわいそうとか、まずしいと思う人は多いと思う。しかし、実際にそうなのだろうか。少なくとも僕の目にはそう映らない。元気に走り回っている子供たちや家の前で洗濯しているお母さん。赤ちゃんを抱っこしているお父さんなどを見ると、日本とフィリピンどちらが幸せなのか分からなくなる。彼らの目に日本人はどう映るのだろうか。
去年、僕が訪れたバヤワンへは車で二、三時間程。バヤワンに近くなるにつれ道路が悪化していく。バヤワンに到着するころの道は全くのデコボコ道だった。ここは、全く変わっていなかった。ただひとつ完全に違うものがあった。村人の数である。確実に人数が減っていて活気が落ちていた。去年はクリスマスシーズンとあって、村人全員が故郷に帰って来ていたようである。普段はマニラや海外に出稼ぎに出ているのだろう。それでも、何も変わっていないバヤワンは本当に懐かしく思えた。ここに来た目的のひとつに前回のホストファミリーにお礼をしたかったこと。CIWESTの建てたDaycareの前でホストブラザーのジプニー(ジープを改造したバスみたいなもの)と出会い、彼らの家に向かった。彼はほとんど英語が喋れない。家に着きびっくりした。全員イタリアに出稼ぎに行っていた。連絡先も分からず、お土産だけ渡してDaycareに戻った。
僕がバヤワンを好きな理由が時間の流れ。本当にゆったりしていて、日本でせかせかしているのがアホらしくなってくる。木陰に座っていたら何時間でもいてしまいそうだ。その辺を散歩したりしてフィリピンの時間の流れに浸るのが僕は大好きである。夜になり今晩泊まる家に行った。何人ほど暮らしているのか定かではないが、小学校くらいの男の子と僕より少し若いくらいの女の子が家にはいた。僕らも今回は一人一家族ではなくみんな同じ家に泊まった。僕としては一人で泊まりたかったがみんなで泊まるのも、School By Schoolの話や発展途上国についてなど話が出来たのでよかったと思う。朝は豚の声で目覚め、川に水浴びに行った。こういうことも日本ではありえない。家に戻り朝食の準備をした。スパゲティを食べた。後から聞いた話によると、スパゲティは結婚式などに食べる超豪華料理らしい。フィリピンに僕たち日本人が行くとどうしても客人扱いされる。ありがたいことではあるがやはり普段の生活をも体験してみたいものである。バヤワンを離れマリアパースに向かった。
湖と火山に囲まれたマリアパースへは車でいけない。徒歩か船以外に交通手段はない。出来る限り荷物を減らして、僕たちは山の中を徒歩でマリアパースに向かった。足場もかなり悪く、毒蛇も生息する中を約四キロかけて到着する。マリアパースの子供はこれが通学路である。景色は湖を背景とした景色は最高であるが相当な道のりである。この道を抜けるとマリアパースに到着する。湖と火山に囲まれたこの小さな村の地形は世界でも珍しいと聞いた。まず、CIWESTのDaycareに行った。このデイケアは本当に先生によって大切にされているのが伝わってきた。Daycareの外にはブランコとシーソー、すべり台の遊具があり、これは政府の機関からかなり安く(確か六百ペソ、日本円にして千円弱。物価を考えると一万円弱)買ったものだと言っていた。花もたくさん植えられていた。建物の中には、サリサリストア(物を買う練習の為のお店)やテレビ、キッチンもあり、とても充実していた。週に一回はDaycareでご飯を支給すると聞いた。この地域は風通しが非常に良く、近所の玄関でCIWESTのスタッフと何時間ほど話していたのかも覚えていない。一瞬にして、マリアパースが好きになってしまった。夕方になり、湖に浮かぶ孤島へ出かけた。船は手漕ぎボートに車のエンジンをつけたもの。火山灰の黒い砂浜に何隻もの船が並んでいる。船の上から見る夕焼けには心を打たれた。孤島にはいくつものは廃墟がある。ギャンブルで破産し途中で工事が打ち切りになったものだった。その夜はOGの八星さんとCIWESTスタッフのAldrinCastilloと共にホームステイをした。彼がCIWESTで働きはじめたのは一ヶ月前。福祉に興味がありDaycare建設に興味があったらしい。彼は大学で建築の勉強をしていて、自分でDaycareを設計したいと言っていた。更に日本に対する意識を聞いた。「私は日本のしたことを祖父母から聞いた。中には日本を嫌う人もいるがそれはアンフェアだ。なぜなら、あなたたちが戦争をしたわけではない。僕も当時生きていたわけではないし、私が日本を嫌いになる理由はどこにもない。反日教育をする中国はおかしいと思う。」と言っていた。僕も日本の犯した事実を知っている。もちろん、それが僕に全く関係ないわけでもない。僕は日本人である。ただ、このように考えてくれる人がいるだけで本当にうれしくなった。次の朝、マリアパースを去る前にDaycareの先生に何が足らないか聞いた。「学校を囲む柵が欲しい。」温井先生は柵を作るためにと千ペソを寄付した。Daycareの先生を信用しないわけではない。しかしあの千ペソが本当に柵のために使われるのだろうか。もちろん、柵となり子供たちの為になるのであれば本望であるが、柵が本当に必要なのかも定かではない。次回、マリアパースを訪れたときには柵が完成している事を願う。そしてマリアパースを出発した。
マリアパースを離れ、向かった先はSusan宅。CIWESTの副代表の方の家である。他の家とは比べものにならないほど大きく立派だった。その日は早めにホテルに向かった。今回泊まるホテルはスイート。入り口のセキュリティーチェックは日本人ということで簡単に通ることが出来る。ショッピングモールでも同じである。日本人というだけでごく簡単なボディチェックだけで通してくれる。果たしてこれはいいことなのか悪いことなのだろうか。そして僕たちが向かった先は世界有数の夕焼けポイント、マニラ湾に浮かぶ海上レストラン。フィリピンの芸能人の写真がびっしり並んでいる玄関を通り一番奥の席へ。本当に豪華なレストランである。CIWESTスタッフが全員そろった。ほとんどのスタッフとは今日でお別れ。ほんとうにお世話になった。
現実を見るということは簡単なことじゃない。特に発展途上国などの国々は危険も多い。日本人が地方の村へ行って現地の家に泊まれるか?答えはNOである。その中でこのような貴重な体験を出来るということは、すべてCIWESTのおかげである。知識も何もない僕達にここまで親切にしてくれるカウンターパートナーも滅多にいないと思う。僕たちはCIWESTに心から感謝しなければならない。また、温井先生にも感謝しなければならない。
最終日。マカティから少し離れたメイン道路の歩道橋に立った。右奥にはマカティのフィリピン最大の都市があり、高層ビルが建ち並んでいる。しかしその真横にはスクワッターエリアがこれでもかというほどに広がっている。これは本当に印象に残っている。同じマカティでも貧富の差が激しすぎる。
フィリピン人には持って生まれた「シェアの精神」がある。困っている人たちを見過ごせないのである。フィリピンでは無職の人が数え切れないほどいる。家族から援助を受けているのだ。これが一向に貧困から抜け出せない理由の一つだと思う。街を歩いても「ペソペソ」と言って子供がついてくる。僕はこの時が一番辛い。お金をくれと言ってお金が手に入る。これほど簡単なことはない。だから、彼らが援助に依存してしまうのではないかと思う。それでも少しの援助で彼らが空腹をおさえられるならその時に数ペソをあげるのはいいと思う。だから、たいていの場合はお金をあげてしまうのが現実である。ただ、上記のような可能性が起こりうることを考えて欲しい。また、スラムの一家族に定期的にお金を送金し、援助をするとする。彼らはその間、生活に困らないだろう。また、彼らは送金したうちのいくつかを知り合いに渡すであろう。そのときに援助をやめてしまうと彼らはどうなるか。知り合いにお金を渡すことはすぐにやめられなく、結果として彼らは更に貧しくなるという悪循環があるとも聞いた。ただ援助といっても彼らの生活に与える影響は大きい。
この活動をする上でもっとも大切なことは現地を見ること。日本では決して出来ない生活を体験し、写真では味わえない何かを感じることが出来る。更に、現地の人々の話を聞くことはかなり貴重な体験である。今回の訪問はSchool By Schoolの活動を始めて二回目となった。
初日、CIWESTの事務所で今回の旅の予定を立てた。マニラからバヤワン、マリアパース、そしてマニラという四泊五日の旅である。大都会から田舎の農村、漁村、そして大都会へという、フィリピンの貧富の差を痛感させられた。マニラでは高級ホテルに泊まり、地方では台風が来たらひとたまりもないような家でホームステイをした。
首都のマニラはごみの量が減っている印象を受けた。前回は道のあらゆるところにごみの塊があり、異臭を放っていた。フィリピンは大気汚染防止のため、ごみの焼却処分が禁止されている。そのため、スモーキーマウンテンやステージングエリアのような、いわゆるごみ山に運ばれるわけである。また、田舎の山の中でも同じようなプラスチックが捨てられている。これはフィリピンの中で急速に資本が広がった為、人々の知識が追いついていない。プラスチックは土に返らない。その常識がフィリピンでは通用しない。あるいは、知っていても大した問題と捉えられていないのだろうか。将来のフィリピンが心配になった。しかし、一年経った今回の旅では明らかにごみの量が減っていた。また、前回印象に残っていたスクワッターエリア(スラムエリア)の一部が完全になくなっていた。隣を見ると道路工事が行われていた。おそらく強制的に撤去されたのだろう。そのように、一年ぶりのマニラも変わっていないようで実際のディティールは大きく変化しているようだ。
初日、ホテルに行く前に藤村さん(桃山卒のCIWEST STAFF)の家に行った。これにもびっくりした。クーラーはない、部屋は相部屋。部屋の中は立っているだけで汗が吹き出てきた。桃山を出て、神大で建築を勉強してきた人がなぜこんな家に住んでいるのだろう。研修生に日本語も教え、拳法も教えている。藤村さんに家の周りを案内してもらった。高い壁で囲ってある高級住宅街を抜け、一歩、路地裏に入った。信じられなかった。人であふれかえっている。人一人通れる道の両側にびっしりと経て並んでいるボロボロの家。真っ暗な家の中には確かに人々の生活がある。写真を撮りたかったけれど、あの場所でカメラを出したら大変なことになっていただろう。カメラが彼らに与える影響もすさまじい。彼らには手の届かない高価なものを僕たちが持つことでフィリピンの人たちは何を思うのか。これについては考えさせられた。路地を抜け川岸に出た。ここにも子供たちがむせ返っている。一体何人ほどいるのか想像もつかない。それでも、Welcome to Philippine、ニーハオやハポン(日本人)!などいろいろな声をかけてくる。防空壕を改造して作った家やトタンの家。あの家を見てかわいそうとか、まずしいと思う人は多いと思う。しかし、実際にそうなのだろうか。少なくとも僕の目にはそう映らない。元気に走り回っている子供たちや家の前で洗濯しているお母さん。赤ちゃんを抱っこしているお父さんなどを見ると、日本とフィリピンどちらが幸せなのか分からなくなる。彼らの目に日本人はどう映るのだろうか。
去年、僕が訪れたバヤワンへは車で二、三時間程。バヤワンに近くなるにつれ道路が悪化していく。バヤワンに到着するころの道は全くのデコボコ道だった。ここは、全く変わっていなかった。ただひとつ完全に違うものがあった。村人の数である。確実に人数が減っていて活気が落ちていた。去年はクリスマスシーズンとあって、村人全員が故郷に帰って来ていたようである。普段はマニラや海外に出稼ぎに出ているのだろう。それでも、何も変わっていないバヤワンは本当に懐かしく思えた。ここに来た目的のひとつに前回のホストファミリーにお礼をしたかったこと。CIWESTの建てたDaycareの前でホストブラザーのジプニー(ジープを改造したバスみたいなもの)と出会い、彼らの家に向かった。彼はほとんど英語が喋れない。家に着きびっくりした。全員イタリアに出稼ぎに行っていた。連絡先も分からず、お土産だけ渡してDaycareに戻った。
僕がバヤワンを好きな理由が時間の流れ。本当にゆったりしていて、日本でせかせかしているのがアホらしくなってくる。木陰に座っていたら何時間でもいてしまいそうだ。その辺を散歩したりしてフィリピンの時間の流れに浸るのが僕は大好きである。夜になり今晩泊まる家に行った。何人ほど暮らしているのか定かではないが、小学校くらいの男の子と僕より少し若いくらいの女の子が家にはいた。僕らも今回は一人一家族ではなくみんな同じ家に泊まった。僕としては一人で泊まりたかったがみんなで泊まるのも、School By Schoolの話や発展途上国についてなど話が出来たのでよかったと思う。朝は豚の声で目覚め、川に水浴びに行った。こういうことも日本ではありえない。家に戻り朝食の準備をした。スパゲティを食べた。後から聞いた話によると、スパゲティは結婚式などに食べる超豪華料理らしい。フィリピンに僕たち日本人が行くとどうしても客人扱いされる。ありがたいことではあるがやはり普段の生活をも体験してみたいものである。バヤワンを離れマリアパースに向かった。
湖と火山に囲まれたマリアパースへは車でいけない。徒歩か船以外に交通手段はない。出来る限り荷物を減らして、僕たちは山の中を徒歩でマリアパースに向かった。足場もかなり悪く、毒蛇も生息する中を約四キロかけて到着する。マリアパースの子供はこれが通学路である。景色は湖を背景とした景色は最高であるが相当な道のりである。この道を抜けるとマリアパースに到着する。湖と火山に囲まれたこの小さな村の地形は世界でも珍しいと聞いた。まず、CIWESTのDaycareに行った。このデイケアは本当に先生によって大切にされているのが伝わってきた。Daycareの外にはブランコとシーソー、すべり台の遊具があり、これは政府の機関からかなり安く(確か六百ペソ、日本円にして千円弱。物価を考えると一万円弱)買ったものだと言っていた。花もたくさん植えられていた。建物の中には、サリサリストア(物を買う練習の為のお店)やテレビ、キッチンもあり、とても充実していた。週に一回はDaycareでご飯を支給すると聞いた。この地域は風通しが非常に良く、近所の玄関でCIWESTのスタッフと何時間ほど話していたのかも覚えていない。一瞬にして、マリアパースが好きになってしまった。夕方になり、湖に浮かぶ孤島へ出かけた。船は手漕ぎボートに車のエンジンをつけたもの。火山灰の黒い砂浜に何隻もの船が並んでいる。船の上から見る夕焼けには心を打たれた。孤島にはいくつものは廃墟がある。ギャンブルで破産し途中で工事が打ち切りになったものだった。その夜はOGの八星さんとCIWESTスタッフのAldrinCastilloと共にホームステイをした。彼がCIWESTで働きはじめたのは一ヶ月前。福祉に興味がありDaycare建設に興味があったらしい。彼は大学で建築の勉強をしていて、自分でDaycareを設計したいと言っていた。更に日本に対する意識を聞いた。「私は日本のしたことを祖父母から聞いた。中には日本を嫌う人もいるがそれはアンフェアだ。なぜなら、あなたたちが戦争をしたわけではない。僕も当時生きていたわけではないし、私が日本を嫌いになる理由はどこにもない。反日教育をする中国はおかしいと思う。」と言っていた。僕も日本の犯した事実を知っている。もちろん、それが僕に全く関係ないわけでもない。僕は日本人である。ただ、このように考えてくれる人がいるだけで本当にうれしくなった。次の朝、マリアパースを去る前にDaycareの先生に何が足らないか聞いた。「学校を囲む柵が欲しい。」温井先生は柵を作るためにと千ペソを寄付した。Daycareの先生を信用しないわけではない。しかしあの千ペソが本当に柵のために使われるのだろうか。もちろん、柵となり子供たちの為になるのであれば本望であるが、柵が本当に必要なのかも定かではない。次回、マリアパースを訪れたときには柵が完成している事を願う。そしてマリアパースを出発した。
マリアパースを離れ、向かった先はSusan宅。CIWESTの副代表の方の家である。他の家とは比べものにならないほど大きく立派だった。その日は早めにホテルに向かった。今回泊まるホテルはスイート。入り口のセキュリティーチェックは日本人ということで簡単に通ることが出来る。ショッピングモールでも同じである。日本人というだけでごく簡単なボディチェックだけで通してくれる。果たしてこれはいいことなのか悪いことなのだろうか。そして僕たちが向かった先は世界有数の夕焼けポイント、マニラ湾に浮かぶ海上レストラン。フィリピンの芸能人の写真がびっしり並んでいる玄関を通り一番奥の席へ。本当に豪華なレストランである。CIWESTスタッフが全員そろった。ほとんどのスタッフとは今日でお別れ。ほんとうにお世話になった。
現実を見るということは簡単なことじゃない。特に発展途上国などの国々は危険も多い。日本人が地方の村へ行って現地の家に泊まれるか?答えはNOである。その中でこのような貴重な体験を出来るということは、すべてCIWESTのおかげである。知識も何もない僕達にここまで親切にしてくれるカウンターパートナーも滅多にいないと思う。僕たちはCIWESTに心から感謝しなければならない。また、温井先生にも感謝しなければならない。
最終日。マカティから少し離れたメイン道路の歩道橋に立った。右奥にはマカティのフィリピン最大の都市があり、高層ビルが建ち並んでいる。しかしその真横にはスクワッターエリアがこれでもかというほどに広がっている。これは本当に印象に残っている。同じマカティでも貧富の差が激しすぎる。
フィリピン人には持って生まれた「シェアの精神」がある。困っている人たちを見過ごせないのである。フィリピンでは無職の人が数え切れないほどいる。家族から援助を受けているのだ。これが一向に貧困から抜け出せない理由の一つだと思う。街を歩いても「ペソペソ」と言って子供がついてくる。僕はこの時が一番辛い。お金をくれと言ってお金が手に入る。これほど簡単なことはない。だから、彼らが援助に依存してしまうのではないかと思う。それでも少しの援助で彼らが空腹をおさえられるならその時に数ペソをあげるのはいいと思う。だから、たいていの場合はお金をあげてしまうのが現実である。ただ、上記のような可能性が起こりうることを考えて欲しい。また、スラムの一家族に定期的にお金を送金し、援助をするとする。彼らはその間、生活に困らないだろう。また、彼らは送金したうちのいくつかを知り合いに渡すであろう。そのときに援助をやめてしまうと彼らはどうなるか。知り合いにお金を渡すことはすぐにやめられなく、結果として彼らは更に貧しくなるという悪循環があるとも聞いた。ただ援助といっても彼らの生活に与える影響は大きい。
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